No.2 “50の建築、50の外壁”1 日本洋風外壁事始め (尚古集成館(1865年)、三田演説館(1875年)、開智学校(1876年)、鉄道寮新橋工場(1873年))

 幕末から明治初め、長崎や横浜の外国人居留地には、ぼつぼつと西洋式の建築が建ち始める。多くはグラバー邸などの木造洋館だが、日本最初の洋風建築は、実は工場である。 1861年に幕府がオランダ人ハルデスの指導で建設した長崎製鉄所(現存せず)である。 当時、やはり近代化を目指していた薩摩藩も洋式工場の建設をはかる。しかし幕府とは異なり、鎖国下での西洋人の協力は望めず、蘭学の知識を元に、ガラスや火薬などの工場数棟を、まずは木造でつくる。(1858年)

  薩英戦争で工場はすべて焼失、1865年に再建された機械所はその教訓から石造とされた。現存する西洋建築としては、グラバー邸、大浦天主堂に次いで3番目に古い、現在の尚古集成館である。

 完成当初から“ストーンホーム”と呼ばれたように、この洋式工場は純然たる石造の外壁を誇っている。その細長い外壁に、洋式のトラス組みで屋根を架けた。この外壁を構築した技術やデザインは、多くの石造眼鏡橋とも共通した中国伝来のものと推察される。数10メートルに及ぶ外壁の所々が出っ張っている。西洋でいうバトレス、転倒を防ぐ補強材だが、それはまだ外観のデザインとまでは表現されていない。また基礎の石も湾曲面に仕上げられ、寺社仏閣の礎石に近い形である。結局この工場外観を洋風だと思わせるものは、当時としては珍しい“四角な穴”としての窓だったのではあるまいか。ともかくも尚古集成館は、日本最初の窓有り石造外壁建築として、西洋化への第一歩を記すことになった。


 明治を迎えると、御雇い外国人建築家の活躍もあり、構造と素材とデザインの三者揃った本格的な西洋建築が東京などにも建ち始める。それらを手本に、大工たちが見よう見まねで日本各地に洋館なるものをつくっていったのが明治初期である。それを擬洋風建築と呼ぶ。


 慶応義塾発祥の館でもある三田演説館(明治8年)は、その擬洋風の典型であり、また東京に現在する最古の明治建築だ。プランは清教徒の教会堂の写しである。アメリカでそれが集会所としても使われている姿を目撃した福沢諭吉が、演説会場に最適と判断したらしい。外壁は伝統的な防火壁、ナマコ壁仕上げとされた。平瓦を竹釘で斜め張りし、目地をぶ厚くナマコのように漆喰で埋める工法で、この白と黒の格子文はまさに日本の美であろう。そこに上げ下げ式の本格派の洋窓がはまり、小さいながらも玄関ポーチが付きと、いわば和の壁と西洋のディテールとが見事な調和を奏でている。


 同じく漆喰を外装に用いながらも、さらに一歩西洋の形へ近づこうとした擬洋風の代表が、松本市の開智学校(明治9年)である。擬洋風の擬とは、なぞらえるの意だが、漆喰を石になぞらえ、木をタイルや鉄のように仕上げ、持てる材料と技術で本物の西洋建築に挑んだその最高傑作との声もあるのが、開智学校。

 黒漆喰に端整な目地を刻んで石造に見立てた基部、白壁に開いた窓には雨戸ならぬ両開きのブラインドが付き、内開きのガラスの木建てサッシは鉄材に擬えて水色に塗ってある。唐破風屋根の玄関ポーチやテラスなど、奇妙な和洋折衷も見られ、文明開化の明治の香りがプンプン漂う外観だ。

 同じ頃、完全洋式建築と言ってよい工場が、鉄道寮の新橋蒸気機関車修理場(明治5年)として建設される。何故完全かというと、これはプレファブ建築で、部材のすべてがイギリスでつくられた輸入品だからである。外壁は厚2ミリの鉄板を、西洋式の下見板張りで組み上げ、鋳鉄サッシのはめ殺しガラス窓が付く。屋根は、鉄骨のキングポストトラス構造で架けられた。構造の鋳鉄柱や外壁の鉄板などのプロポーションは、どれもイギリス人の感覚で決められ、つまりは西洋の建築デザインそのものが輸入されたことになる。この黒船ならぬ黒鉄外壁を、工場で働く当時の日本人たちは、どのように受けとめたのであろう。

尚古集成館
尚古集成館
(鹿児島県鹿児島市吉野町)
三田演説館
三田演説館
(東京都港区三田)
開智学校
開智学校
(長野県松本市開智)
鉄道寮新橋工場
鉄道寮新橋工場
(愛知県犬山市・明治村)
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